質問させていただきます。
十戒は守らなくてはならないのですか?
旧約聖書にはたくさん律法がありますが、それらはどうでしょうか?
どのように信仰生活を送ればいいのか教えてください。
きっとあなた様は旧約聖書をたくさん読んでいらっしゃる方なんだろうなと思います。私たち日本人にとっては「律法」という言葉はあまりなじみがないですよね。
私ね、以前は、律法っていうのは、
こやかましい神様が「あれしてはいけない」「これしなくてはいけない」って
命令しているのかなって思ってたんです。でも…
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番組パーソナリティの吉崎恵子です。皆様からのお便りに声のお返事をしてもう35年くらいでしょうか。あなたからのお便りもお待ちしています!心の具合が悪くて2ヶ月ほど入院していました。
退院してやっと家になじんできているところです。
マタイ9章。
暗唱聖句に「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」とあります。
これは一方的な神様のあわれみなのですね。
この中風の人は自分では何もできない人であったのに、
イエス様が深くあわれんでくださって、
罪を赦し、病をいやしてくださった。
この中風の人に対してだけでなく、
この私にも語りかけてくださった。
私、もうここ読んだだけで元気出ちゃった。
嬉しいです。
私は本当に罪の内におり、もだえ苦しんでいました。
父はコミュニストで宗教を信じない人でしたから、
死んだらもうおしまいと教えられてきました。
だから死が怖かったです。
神様という方がおられたなら、どうして死なんか創られたのだろうとつぶやいていました。
でも聖書を読んでその答えがハッキリしました。
私の内にはどうしても罪の性質があること、このために苦しかったこと、
そして神様はそんな私の身代わりとなってイエス様をくださったこと、
そのことを信じるだけでいいこと。
本当に苦しみが感謝に変わりました。
そしてその神様は、共に生きてくださる方なのですね。
私は孤独ではないんです。
通信講座を受講していたら、なんだか嬉しくてたまらなくなってしまいます。
喜びを分かち合ってくださるFEBC様のお陰でしょうか。
感謝です。
ありがとうございます。今日も暇つぶしに思いを落書きします。
各コーナーで聖書の知識・解説等は喜んで聞いていますが、
結論的に、神は全ての人間を救ってくれるから
静かに待て!と言われているような気がします。
これは私の様に怠惰な人間には、
何もしなくても、神が全状況を良きに変えてくれるから
あせって何かをする必要は無いと言っているように思えます。
これは人間の努力を否定する面があり、
日本に福音がいきわたらない一因でもありましょう。
私は人間が何か福音に役立つための場を与えられるのを望みます。
勿論、人間の行動を助けてくれる神というのは、知識上では分かります。
こんな要求をするのは私が事故で身障2級、
最後の団塊世代という老齢などの呟きなのかもしれません。
放送をお聴きくださって、結局は神様はすべての人間を救ってくれる。マタイ7章
1節 「人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである。」
自分の目の中の丸太が本当に見えていなかったです。
自分の秤で人を量っていました。
生活態度も、仕事、考え方など、本当に私が中心であり
私の秤は丸太も見えぬいい加減のものです。
7節「求めなさい そうすれば 与えられる」
何気なく使っていた「求める者は救われる」の本当の意味が解りました。
私には天の父が「求めなさい あなたに充分の愛をあげよう」と言ってくださるんですね。
安心して主イエスと父なる神様に祈ります。
13節「狭い門から入りなさい」
入るのに困難なもののたとえとして狭き門を使ってきました。
狭い門とは一つしかないのですね。
洗礼を考えている私にとって、狭い門をしっかり見極めて入って行きたいと思います。
私ね、あなた様が最初にメールをくださってから今までのことを思い出して、ヨハネによる福音書1章〜3章
仕事で悩みを抱えている時に、
何か心の支えを探す為に宗教の本を読んでいる中で、日本FEBCを知り、聖書通信講座を知り、
すぐに申し込んだものの、なかなか判らなく半年が過ぎました。
聖書の該当する章とガイドを何回も読み、広田先生の番組を聴き、
ようやくレポートを書いてみようと思えるようになりました。
はじめに、「言」の意味が最初全くわかりませんでした。
ここで相当つまずいて、
何で聖書通信講座はこんな難しい福音書からはじめるのかなと思った程でした。
ガイドを読んだり、広田先生の教会のホームページの説教集を読んだりしながら、
言と神とイエス・キリストが結びついてくるようになりました。
「主イエス・キリストの御名によって祈ります」
という祈りの言葉がわかったように思います。
聖書とガイドを繰り返し読む中で、
「聖書」を物語として読むのではなく、
聖書には事実が書かれてあって、
その歴史上の出来事は、事実であるがゆえに存在する
という考え方で読めるようになってきたように思います。
亡くなった父親が仏教で祭られており、
もし家族の中で自分一人だけがキリスト教徒になったら、
自分が死んでから家族などに天国で会えるのかなどと素朴な疑問があります。
しかし読み続けることでわかってくるものと考えますので、
是非次のガイドを送っていただきたくお願いいたします。
そう書いてくださって本当にありがとうございます。1月半程、「なんか疲れました」「死にたい」というため息ばかりでした。
そんな中FEBCの放送は救いでした。
特に郵便ポストの前奏を聴くと心底ほっとしました。
広田牧師の語りに励まされました。
郵便ポストに寄せられる、苦しみ、祈り、救いの数々。
それを深く受け止め、喜んでくださる吉崎さんの声。
なるほどと思ったり、共感したり、羨ましく、妬ましくさえ思われますが、
その方が救われてほんとうによかったと思いながら聴いています。
なんか調子が出てきたかなと思った頃、
「愛がなければ、全ては虚しい」ということばが深く胸に刺さり、
がっかりして、眠りにくかった日がありました。
とにかく自分の元気を絞り出すことだけに必死で、
人のことなど考えなかったと。
その翌日か翌々日、一緒に風呂に入っていた娘が両手を本のようにして言いました。
「今月の聖句教えてあげようか。
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさいっていうんだよ。」
なぜ今それを言う?
この子を通して誰かが言わせたかと思えるくらい驚きました。
ため息はまだ続きますが、あまりそればかりにとらわれなくなった気がしています。
まあとにかく、来てみなさいと言われているような、いないような感じですが、
床を担いでとぼとぼ歩いているような日々です。
毎日の放送はほんとうに助かっています。
もっと頑張らなければ、家族のために、自分のために…と思っても、マタイによる福音書13章から14章をお送りいただきましてありがとうございました。
イエス様の宣教は、神に心を素直に開く幼子のような人にあらわされ、
智恵のあるものや賢い者には隠された謎の言葉になる、と・・・。
私は、賢くもなく、智恵もないのに、
幼子のように心が素直でないばかりに
イエス様が「恐れるな」と言ってくださっているのがわかりません。
恐れるほどのことでもないのに、自分が胃潰瘍になるほど恐れ、
憐れみを求めている人を拒否しています。
傷つけているかもしれません。
受け入れられないのです。
最近は、助けを求められる度にどうにかして逃げたいと思う自分がいます。
最後まで責任が持てないのです。
年をとってきたのでしょうか?
私は、今逃げたいのです。
私は頭の中で大変な事を想像しただけで疲れてしまったのです。
こんな私を神様はどう思われるでしょうか?
こんな時こそ、イエス様にゆだねてお祈りします。
おまかせいたします。そしてお赦しくださいと…。
あなた様に申し上げたいです。私は42歳独身女性です。
寂しさ、孤独感や、今後の人生の不安でいっぱいです。
本当に親しい人はいません。
もう生きてくのが嫌になります。
こんなに年をとってしまい、家から外に出るのも嫌になります。
生きてることが辛くて仕方ありません。
神様に祈ってますが幸せになれません。
幸せになる方法を教えてください。
辛いときばかりFEBCにメールしたくなります。
スミマセン。
辛い時に、FEBCがある!って思い出してくださって、少し前の『恵子の郵便ポスト』の「毎日人を裁いて」を聞かせていただきました。
涙が止まりませんでした。
まさに私のことだったのです。
昨年末から近隣の方ともめていることがあり、
私はずっとその人を責め、問題を理解できない夫・友人を責め、
責めている自分を責めていました。
自分の心を静める術が見つからず、ただ祈るしかありませんでした。
そうしたら、こちらのホームページと出会えたのです。
「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉は大変な慰めになりました。
心が静まり冷静になれました。
そしてそれまでの出来事を振り返り、
責めるより感謝の気持ちが持てるようになりました。
吉崎さんの「自分自身をまず許して受け入れる」という言葉も慰めになりました。
そして、こんなに人を責め続けた私でさえ、
このように導いてくださる神様に心から感謝せずにいられません。
聖書はたまに読むだけで、神様のことを何も分からない私ですが、
勉強していけたらと思っています。
私はね、ほんとうにいつもマタイ福音書2章12節で「他の道を通って帰った」と書かれていますが…。
イエス様を知って今までとは違う人生の道を歩んでいくともとれると感じました。
私にもいろいろな悩みがあります。
主人が浮気をしたり…
同居でイライラさせられたり…
おかげで鬱になり、人を憎み攻撃することでしか自分を支えることができなくなっていました。
しかし…教会に通い、イエス様に出会い、
この困難の意味もわかり始めています。
主のご計画なさることに間違いはないと。
私も主を知ることで人生の別の道を歩み出し始めることができたように思います。
素晴らしいですね!今一番楽しみにしているのは「魂のゆくえ」です。
ある時の放送は、私たちの最期について。
日本人の死生観では、「自然」に戻っていく、自然の流れの中にかき消えていくという思いがある。
しかしそれだけではとても済まされない思いが私たちの心の底にはあるということ。
それを聖書の福音理解では、私たちが誰であるかを神様が知っていて、
一人ひとりの名前を呼んで、とらえて導いてくださるというお話でした。
特に印象に残っているのは「去り行かないお方」の回です。
私は今、病気の主人を支えなければならないのに、
すぐ怒ったり、冷たかったり、もう鬼のような私だといつも思うのです。
改めようと思うのに、どうすることもできなくて、
どうしたらいいのかなぁと思っている時に聴きました。
「サマリア人のたとえ」を取り上げて、
自分では一生懸命であっても限界がある。
結局私たちは過ぎ行かざるを得ない者であると。
私も、これはどうしようもないこと、運命だ、と逃げてしまう者ですが、
そのどうにもならない中で、あきらめに終わってしまわないで、
通り過ぎないお方の恵みにもう一度励まされて、
神様の大きな関わりの中に包まれて、
何か一つでも、少しでも、神様のお役に私を用いてくださいと。
私だけではどうすることもできないと思い知らされている毎日ですが、
そのところに「わたしに任せなさい」と言ってくださる神様が
いつも側におられることを思い、過ごしたいと思いました。
先日、思い切って主人に「教会へ行ってみたいと思うのですが…」と言ってみました。
そうしたらなんと
「何もキリスト教は悪くない!行こうと思うのだったら行ったらいいと言っているだろう」
ですって!
本当にびっくりしてしまいました。今まで聖書や放送について何か言っても、
いつも聞こえない振りをして一言も返事がなかったのですもの。
主人は、「教会」は月一回のお寺参りのようなものと思っていますので、
「毎週行きます」なんて言うとそれこそびっくりしてしまうと思います。
でも私にとってはすごいことでしたので一寸書かせていただきました。
そこで、教会を紹介していただけますでしょうか。
よろしくお願い致します。
ご主人様のお口から「行ったらいいだろう。」毎晩の放送を楽しみにしております。
教会へ定期的に行けない今、
信仰の、そしてキリスト者としての生き方を学ぶ頼みの綱のように思っています。
実はもう何年も、父親に対する確執の思いで苦悩しています。
どうしても父には心から感謝する気持ちになれないのです。
父は母に対して暴力を振るっていました。
私自身、身体的な暴力こそ受けなかったものの
言葉による暴力は再三受け、
心を傷つけられて、今もトラウマとして残っています。
「父には心から感謝する気持ちになれない」私は教会にも行かず、洗礼も受けてはおりません。
亡き弟がクリスチャンでしたので、
亡き両親もクリスチャン葬でした。
その後、私自身の生活が一変致しましたので、
環境が落ち着きのないものになりました。
自分勝手な都合の良い祈り方を今も続けております。
私も72歳になりまして、
こんなことでは良くないと思うようになり、
聖書を理解することが少しでもできたらと
「ティールーム」に申込をする気持ちになりました。
「通信講座マタイによる福音書と新約聖書をお願いします」私は願いを祈るということをあまりしていません。
今の生活が平穏無事に過ぎているからかもしれないけれど、
自分の力で生きていけると思っているからなのでしょう。
また、願いを祈るということに抵抗を感じるときがあります。
それは、御利益的に祈っている自分の姿をどこかに感じているからなのかもしれません。
また、願うという行為が、結局は
自分の欲を満たそうとしていることのように思えてしまうからなのかもしれません。
願うことが苦手な自分がいます
「主よ」と叫び続ける。
そこに信仰のダイナミズムを感じます。
自分の願いがそのまま実現されるかは別としても、
主は必ず応えてくださるという信頼をもって、
私も主に向かって叫び続けられたらと思います。
「願いを祈る」ということは、
実はイエス様に向かっていく行為であるということ。
ここまで書いてきて気付きました。
「願い」とは、「病気を治してください」とか「もっと生活を楽にしてください」とか、
欠乏を満たすために祈るのではないということ。
自分を差し出し、イエス様に向かっていく信仰の歩みであるということ。
「主よ」と呼び続け、イエス様に向かっていく行為そのものがテキストに書いてあるとおり、ヨハネ福音書9章は数え切れないほどの課題が含まれているように私も思いました。
その冒頭の、先天的な不幸、障害について、
「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」
と言い切っているところから、圧倒されてしまいました。
私は、父が鬱病であったこと、母が異常な教育熱心かつ過保護過干渉であったこと、
そして自分も鬱病と診断されたこと等を大変な不幸と考え、
自己憐憫から現実逃避をし、
あたかもベテスダの池の男のような状態になっていました。
自らが精神科に通い、薬を飲む境遇に、諦めと絶望を感じつつ、
それを無理に誤魔化そうと虚勢を張りながら働いてもいました。
混乱、絶望、自己憐憫、死んでしまいたい、消えてなくなりたい、
そんな本音を抱えながら、誤魔化しながら働く日々を過ごしていました。
ですが、聖書を読むにつれ、私の罪とは何であるのか、
見えていないのに「見える」と自分に言い張っていたものが何であるのか、
少しずつわかってきたような気がしています。
いえ、まだまだほんの少しです。
ただ、自分が如何に罪深い人生を送ってきたか、罪深い存在であったか、
その雰囲気だけはしっかりわかってきたように思います。
まだまだ信仰には程遠いですが聖書を読み続けていこうと強く思うようになりました。
「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」日々、聖書のみ言葉を心の糧とし、
インターネットでFEBCの放送を聴き、学びを深めています。
聖書は、もう本当に長い年月、読み続けてきました。
同時に仏陀の教えや、孔子の教えなども独学で学び、
日々の生活に生かすように努力してきました。
40歳の半ばで転職を余儀なくされ、収入がだいぶ減ってしまってからは、
ますます精神的なものを求める気持ちが強くなり、
去年、FEBCのヨハネによる福音書の聖書通信講座を受講しました。
自分なりに聖書のことはわかっているという傲慢さがあったのでしょう、
じっくりと学ぶというよりも、かなりハイペースで流すように学んでしまいました。
しかし、知識は増えても、まだ受洗には到っていない自分を思うとき、
まだ自分には神からの召命と言いますか、選びがないのではないかと不安になることもあります。
知識をいくら積み重ねても、
それが信仰にまで昇華されなければ空しいものだと思うようになりました。
かろうじてワーキングプアではないものの、
家のローンを払ってしまえば食べるのが精一杯という日々の中で聴くFEBCの放送と、聖書の学びとが、
今はとてもありがたく思えます。
収入が少なくなってみると、
独身であることが、むしろありがたくさえ思えます。
自由に使えるお金が少ない僕の趣味は散歩で、
夏などは、ペットボトルに水を入れて凍らせたものと聖書とをナップサックに入れ、
野山をよく歩きました。
氷が少しずつ溶け出して、かなり長い時間、冷たい水を飲むことができます。
汗をかいたあと、乾いた体に染みこむように水が体の中に入ってきます。
そしてみ言葉を求める僕の心も、もしかしたら乾いているのかもしれません。
冷たい水を飲みながら野山で聖書を開く一人の時間。
僕はそのような時、とても豊かな時間の中を生きているのを感じます。
今は、ルカによる福音書の聖書通信講座を再開しましたが、
簡単に読み進めることができず、とても時間がかかってしまいます。
でも、それでよいのだと思います。
主よ、どうか、聖書をわかったような気になっている僕の心を砕いてください。
そう祈りながら、丹念に、み言葉を学んでいきたいと思います。
ただもう僕も人生の折り返し地点を過ぎているので、
そうのんびりしてもいられませんが。
40歳半ばを過ぎて転職を余儀なくされて、私は「教会に対して」は、収入の十分の一を捧げられずにいます。
カギカッコで「教会に対して」と書きましたのには理由があります。
私は正社員ではなく、家庭は母子家庭、さらに家族の誰もクリスチャンではありません。
生活費は私ともうひとりの家族で折半、通勤交通費は自己負担、租税公課は給与天引きではありません。
おまけに私は自分の家と教会が結構離れていて(電車とバスを乗り継いで片道2時間強かかります)、
交通費だけで収入の十分の一は軽く越えてしまうのです。
私にとって今通っている教会は本当に恵みに満ちた、感謝な場所、幸いな場所です。
「教会に什一献金を捧げるために教会には通わないでお金だけ送る」というのも、
何と言っていいのか、腑に落ちないというか、
でも、実際のところ、
今の教会に通い続けながら収入の十分の一を捧げようと思ったら
借金して捧げるしかないくらい生活はカツカツだし、
もう何が何だかよくわからなくなってしまいました。
FEBCの皆さんは、什一献金のことをどのようにとらえていらっしゃるか教えていただければ…
でも、それよりも何よりも、
主が私を赦してくださるように祈っていただければ幸いに存じます。
う〜〜〜ん。聖書の、「二人または三人が私の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という言葉ですが、
今、私はからだの状態があまり優れず、
FEBCのインターネット放送を聞くときも聖書日課を読むときも、
いつも一人でお祈りしたり…という状態です。
一人で祈るとき、聖書を読むときには、
神様は私と共にいてくれるのでしょうか?
お一人でインターネット放送をお聴きになり、聖書日課をお読みになっていらっしゃるあなた様。聖書を読んでいて、いつも心を痛めるのが
ユダの裏切りとペトロの「知らない」発言です。
ユダついては「イエス様は、なぜユダを十二弟子の一人に選んだのだろう?」と思っていました。
とはいえ、人間は誰しもユダやペトロ、その他イエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たちのようになると思います。
私も未だにクリスチャンであることを公言するのに大変な勇気がいります。
自分がクリスチャンであることを語らずに済むなら語りませんし、
よっぽどの事がない限り適当に誤魔化してしまいます。
職場で聖書を読んでいても、「それ何の本?」と聞かれ、
「聖書です」とひとこと言えば済むものを適当に誤魔化したり…。
どうか勇気を持って・・・ではなく、
ごく自然に信仰告白が出来ればいいなと、
主に語る口を与えてくださいと祈るばかりです。
そう書いてくださいまして、ありがとうございました。