7月もあっという間に終わりですね。
山のような仕事を抱えて、毎日それに負われて、
時間が足りないほどだったでしょうか。
それとも、ご病床で、一日が長く、
いつ終わるかと思えるような長い時間の連続でいらしたでしょうか。
人生の峰を歩いている方も、
ほんとうに厳しい谷間を歩いていらっしゃる方も、
どうぞ主ご自身を仰ぎつつ、神様を避けどころとして行かれますように。
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番組パーソナリティの吉崎恵子です。皆様からのお便りに声のお返事をしてもう35年くらいでしょうか。あなたからのお便りもお待ちしています!メールをいただきましてありがとうございました。
とても嬉しく思いました。
「マリアの賛歌」は毎日唱えています。
先日この内容がよく分からないとお話致しましたが、
先月送っていただきましたマルチン・ルターの「キリスト者の自由」(CD)を聴いていましたら,
その最後に「マグニフィカート」があり、内容を少し理解することができました。
ルターもこれを唱えていたそうですね。
それを私も唱えることができるなんてとても感激しています。
今の私は、求めている御言葉や自分に必要な御言葉が殆ど直ぐに与えられます。
ふと一つの御言葉が心に浮かび、その御言葉は聖書の何処に?
‥1時間ぐらい必死に探すと見つけ出す。
見つけ出せずにもう駄目かと思っていると、FEBCの放送から流れてくる。
自分の生活と御言葉とを結んで悩んでいると、
テレビの中の人が答えのヒントになるようなことをフッと話してくれる。
本の中から思いに叶う文章が出てくる。
他界した母の事を兄と話して悲しくなり部屋で泣きながら祈ると、
二、三日して突然御言葉が心の中に入ってくる。
そして慰められる。救われる。
今回もそうです。
「マリアの賛歌」がよく分からないなあ‥と思っていると
送っていただいたCDの中にそのお話が入っていました。
このような事がよくあるので、
「まただ‥この前もそうだった。あの時もそうだった‥」と感動しながら、一人で笑ってしまいます!
神様がなさる事の見事さに。目頭が熱くなります!神様の御慈悲に。
でも、求めても与えられないものもあります。
現実の生活の事でずっと祈り続けてもまだ得られないものがあります。
これはどういう事でしょうか。
お祈りに根気の無い私は、
祈りが足りないのかなあと思ったり、私に必要無いものかしらと思ったり、
もう少し忍耐して待つべきなのかしらと思ったり‥
時々落ち込みます。
けれども、このような煩いの中で確かなことは
「神様は私に最善を成してくださる」
「必ず御導きがある」という思いが心のどこかにあることです。
そして希望が生まれます。
これは不思議なことです。
この事は理屈ではありません。
小さな小さな確信、小さな小さな希望。
それが私の中に有るから有るのです。
そしてそれは今の私の支えになっています。
そう書いてくださって、ありがとうございます!とても懐かしい番組を見つけました。
FEBCの「恵子の郵便ポスト」です。
1989年に手紙を書き、放送されました。
元来、人との交流が苦手であった私は、
気持ちの通じ合う友人を見つけに教会に行き始めました。
それがうまくいかないという相談でした。
当時は手書きの手紙、今はパソコンで手紙が書ける時代に変遷するように、
ほぼ20年の時を経て、もう一度FEBCを聞き、
そしてインターネットでも見られるようになりました。
というより、なっていたのです。
学生時代には毎日のように聴いていました。
かろやかな声、そしてリスナーからの相談に親身に答える、この働きを感謝せずにいられません。
キリスト者である人にもそうでない人にも
多くの勇気と共感を与えていただいて感謝しています。
ほぼ20年の時を経て再会したFEBCは
私に語りかけをしてくれる大切な宝物であり、
教会に行きはじめた時に、一番最初にできた友人だったと、今気付いたのでした。
ホントにホントにお久しぶりです!ヨハネの福音書6章の“5千人のパン”の記事を読むと、
少ない収入で娘に仕送りをしていた時代、
切り詰めて切り詰めて、計算上では絶対足りないと思える状態なのに仕送りした後のお金で
何とか生活できた日々を思い出します。
私のわからないところでお金が増えてると感じたものでした。
当時の私にとっては、それが“5千人のパン”でした。
そして、今回学んだことは、
わずかと思えるささげ物でも、神様が用いられると「神の国」ができるというすばらしい恵みです。
少年はそこにいる人たちの中では、小さな存在であったでしょう。
そして、彼の持っていたお弁当はささやかで、
しかもそれは彼のためのお弁当だったでしょう。
でも、それをささげたことで、皆がおなかいっぱいになったんですよね。
私のささげるお金は、わずかです。
ささげる時間も働きもわずかです。
でも、神様のためにささげるとき、
それは、わずかじゃなくなるんですね。
受けるだけの恵みから、ささげる恵みについて学べたこと感謝です。
あぁ〜、ほんとうにそうなんだ!って思いました。48才女性です。
人生の折り返し地点に来て模索する中、不安で鬱状態の日が長いこと続いています。
神様が私を顧みてくれている確信はあるのですが、
祈っても聖書を読んでも漠然とした将来の不安は無くなりません。
自分自身一人で、私が面倒を見なければいない人も無く
苦しい中努力して生きていく理由が有りません。
私は、若い頃に大志を抱いて、アメリカへ来ました。
がむしゃらに努力する内に、それなりの実績が上がり、地位や収入も得ました。
が、年を取るにつれて体力が無くなり、それにつれて気力も落ちて、
もう以前の様には働けません。
今まで神様が助けてくれた事を書き出してみても、
自分のことばかり考えずに人の為にお祈りしてみたりしても、
悲しいばかりです。
これも試練と思い、毎日自分を引きずる様に仕事に行きますが、
もう疲れてきました。
どうしたらいいのでしょう。
あなた様のためにお祈りします。
死ぬことが怖くなりました。
少し前までは自殺未遂を繰り返しながら、死の恐怖に怯えていました。
まったくの矛盾です。
人生に絶望しているつもりでも、死ぬことは怖くてしかたがありませんでした。
いまでは自ら死を選ぶことはまったく考えなくなりました。
正直に白状しますと、聖書を読んでも今ひとつ理解できていません。
礼拝で牧師先生の説教を聞いてもほとんど上の空です。
でも、それらに触れ続けることで生きる希望をいただいたようです。
できることは限られていますが、毎日を精一杯生きることができるようになりました。
失敗は数えきれません。
でも、そう簡単に失望することはなくなりました。
私は生まれ変わりました。
いまの自分のまま死ぬことに少しの後悔もありません。
死ぬことは怖くありません。
でも、自ら死を選ぶことは決してありません。
イエスの御言葉を実践できているかどうか、自身はありません。
でも、私は変わりました。
明日も精一杯生きたいと思います。
お便りの一番最初には「死ぬことが怖くなりました」と。今日は「召し」のことについて、少しお聞きしたい事があります。
「召し」、それは神様のお心を知り、それを実行するという事だと、私は思っているのですが、
一体、私たちはどういう時にどんな形で召し出されるのでしょうか?
祈っているときでしょうか、または頭に浮かぶものなのでしょうか?
そして、私はどういった召しを与えられているのでしょうか?
一人でいても神様が一緒にいてくださる事を最近とても感じる事が出来、
神様の愛に包まれた生活を送っている事が分かるのですが、
私がこうなりたい、こうありたいと切に望んでいる事と、
神様の私に望んでいる召しの姿とは、きっと違うものなのでしょうね。
そういったときは、やはり神様優先の考え方が必要なのでしょうか?
自分の夢を何度祈り追っても答えが出ない時、それは結局は報われないのものなのでしょうか?
自分の信じている道と、自分が進んでいる道が違っているようで、
何だか煮え切らない日々を過ごしています。
あなた様はほんとうに神様の御心を求めて、神様の御心を知りたい、今、人生のどん底にあって、いくら祈っても変わりません。
神様、もうこれ以上酷いことをしないでください。
もう限界です。もう耐えられません。
祈りは自己満足のための自己暗示でしょうか?
もうどれだけ祈っても変わらないので諦めています。
それこそ人生が限られた時間であるのなら、
苦難を味わうほうがよいかもしれません。
そうであれば、神様、もっと苦難を与えたまえと祈るべきでしょうか?
苦難は祈らずともやって来ますので、 そのほうが良いでしょうか?
人生の残りの時間を多くの体験に生かすのなら、そのほうが良いのでしょうか?
あなた様は本当に大きな苦難の中で、神様は実に不思議なことをなさいます。
私は見なければ信じないものでした。
理屈っぽいし、概念の定義も曖昧にできない。
ただ、信じる、そんなこと私にできる訳はないでしょう。
宇宙とは物質とは生命とは、人間とは、
なにごとも厳密に定義しなければ、気持ちが悪くて、しょうがない。
そんな鈍な男でありました。
病気になって、やっとわかったんですよ。
私だって鼻で息をしているものにすぎないって。
死にかけてようやく。
ほんと、人の一生っていったってなんにもない!
それがやっとわかったんです。
そりゃあ、仕事は少しはやったけど、だけどそれが何なの。
ただ、生まれた、生きた、死んだ、それだけのことじゃないですか。
「夜通し働きましたが、何も取れませんでした」(ルカ福音書5章5節)
一晩中、明かりがともって不夜城といわれるようなところで、
ストレスが最高値になったとき、
わたしは病気になりました。
病気になって、「ああ、これでやっと眠れる。」
真っ先にそう思いました。
ノルマからもローンからも全部解放される、安心してずーっと寝てられるんだ。
開放感は死に面して実に穏やかな気持ちにさせてくれました。
「せめて妻ににだけはお別れの電話をしておこう。」
そう思って、もつれる舌で「たぶん、もう死ぬ。さよなら、今まで、ありがとう。」
それだけ言うのがやっとで、痙攣しておりました。
窓の外に大きな青い満月がでていました。
それを見ていると、人生って、あっけないものなんだなあと思いました。
そうしたら、やっぱり悲しくて涙の雫が頬をつたっておりました。
ようやくわかったんですよ。神はおられるって。バカでしたねえ。
それから、「神様助けて、神様助けて、神様助けて」って、
気を失ってもブツブツブツブツ言い続けていたそうです。
そんな私を神様は憐れんでくださいました。
神様は私に「立って、歩け」って言ってくださいました。
後で知ったんですけど、立つとは立ち返ること、歩くとは真理を歩くってことなんだそうですね。
主の恵み深さ、慈悲深さ、憐れみ深さ、
形容詞をあるだけくっつけてもまだ言い表すことのできない最大の感謝を持って、
主の祈りをお捧げいたします。
あなた様は本当に死線をさまよったときに、吉崎恵子さん、お元気ですか。
私もなんとかやっています。
ここ2、3日、心が寂しい時があるので、
もしよかったらお手紙ください。
最近、10日程入院していました。
緩和ケアのお世話になっています。
ガンの痛みと痛み止めの副作用なら我慢できるけど、
抗ガン剤の副作用は我慢できませんと伝えました。
腫ようマーカーが上がったので何もしない勇気もなく、
副作用の感じられない抗ガン剤の点滴と、飲み薬は飲んでいます。
毎日みことばを開き、
水野源三さんの詩を繰り返し読み、
今は自宅におれますことを感謝しております。
毎夜の放送も楽しみにしています。
あなた様はいつもご献金を同封して、月に1度お手紙をくださいますね。毎日の放送をありがとうございます。
私は病弱の身で81歳まで生きることを許されておりますが、
3年程前から体調悪く、長時間座っていることも、階段の昇降もできなくなり、
教会にはまったく行けなくなってしまいました。
目もよく見えなくなり、大好きだった本を読むことも難しくなって、
今は示された聖書の箇所を読む程度となっております。
1年程前に深い飢え渇きを覚えて、
雑音でほとんど聞こえないFEBCの放送を、
何か少しでも聞かせていただきたいと耳を傾けていましたら、
「インターネットでお聞きの方」という言葉が聞こえましたので、
隣に住む息子夫婦に聞きましたら、すぐ調べてくれました。
私にはインターネットの操作はまったくできないので、
息子夫婦が録音してくれるようになり、
雑音なしに、すばらしい神様の恵みのみことばを
豊かに説いてくださる言葉を聞くことができて、
本当に生き返るような思いが致しました。
枯れそうな老木に水を注いで、緑の新芽を出す木のように、
渇いた心と体とを命の水でうるおしていただき、
神様への賛美が湧いてきました。
息子は私の様子を見て、
「薬よりずっと効果があるね」と申しております。
(息子夫婦はまだイエス様を知らないのですが。)
今、手術を受けて入院しております。
家にいると82歳の主人の世話で精一杯で手紙を書く余裕がありませんでした。
お礼を申し上げたいと思いながら1年以上経ってしまいました。
やっとお礼を申し上げることができてホッとしております。
術後のお加減はいかがでしょうか。私は過去の汚らわしい自分を許すことができず、
友人ができても彼氏ができても
過去のことが邪魔をして、その者達を避けるようになりました。
就職するも、過去の自分の犯罪が他人に知られているのではないか、
私の過去の身辺調査をしたのではないかという恐れから、
現在は人と接しない仕事しか出来ない状況です。
神様が私を愛し、犯罪から身を染めることのないように遠のけてくださったことに感謝はいたしますが
どうもしっくり神様の愛を実感できないのです。
もう頼るものが何もなくどうし様もない状況です。
そこで質問なのですが、
私はどうしたら過去の自分と和解をし受け入れることが出来るようになるのでしょうか。
今の私にはキリスト教しか救い場所がありません。
教会に行っても、教会の人たちが私の過去を知っているという恐れからうまく人付き合いが出来ず、
最近は通ったり通わなかったりの状況です。
キリスト教的に過去の自分の犯罪とどう付き合っていけばよいのかアドヴァイスいただければ幸いです。
天の神様
この様なインターネットを通じて相談が出来る場を提供してくださった神様の愛に感謝いたします。
どうか過去の自分とうまく付き合って、社会復帰が出来るようにお導きください。
主のみなにより祈ります アーメン。
そのように祈りで結んでくださったメール、いつも心安らぐ放送をありがとうございます。
ひとつお伺いしたいことがあります。
例えば、人生の岐路にさしかかった時や、重大な決断をしなければならない時に、
それが、本当に神様の“みこころ”にかなっているか祈るのですが、
思い浮かんだ事に対し、それが本当に神からの返答なのか、
単なる自分の思い込みなのか、わかりません。
もちろん神様のみこころに従いたいと思うのですが、
祈り方に問題があるのでしょうか・・・
恵子様、スタッフの皆様はこのような時にどうされていますか。
あなた様は、「神様の御心にかなうことをしたい」私は今まで万引きした事が何度もあります。
不倫関係になった事もあります。
未婚同士で肉体関係を持った事もあります。
妊娠中絶した事もあります。
隣人を愛する事も出来ません。憎んでばかりいます。
人の役に立ったり、親切にしたりしていません。
こんな私も、神様から愛されていますか?
こんな私でも神様は愛して下さっているのでしょうか?
ユダは許されずに畑に落ちて死んでしまったのですか?
彼が畑で死んだのはどのような意味があったのでしょうか?
初期教会で、自分の財産を偽証して実際より少ない額しか献金しなかった夫婦は死んでしまいましたが、
あの死はどういう意味でしょうか?
許されない罪もあり、その場合は死ぬ事になるという事ですか?
過去にこんなに沢山の罪を犯した私でも、
まだ愛される可能性があるとしたら、
どうしたらよいのでしょうか?
あるいは、もう手遅れと言う場合、
今後どのように生きていけばよいのでしょうか?
神様の前に手遅れはありません。FEBCとのお付き合いは30年位になります。
中学1年生のBCLブームで聞き始め今日に至ります。
まだクリスチャンでは有りません。
高校生の時に1年半ほど教会に通っていましたが、行かなくなりました。
今年に入りなぜか聖書が読みたくなり、新約聖書を始めから順番に読んでいます。
現在、ルカによる福音書を読んでいます。
また教会に行きたいとは思っていますが、家庭もありなかなか踏み切れません。
家の近所に教会があり、クリスマスや教会コンサート時は行ったりしています。
月刊FEBCもずっと購読しております。
今月購読期限切れですので、再度申し込みいたしました。
よろしくお願いいたします。
そうですか〜!まぁ長いお付き合い、ありがとうございます!初めてお便りします。
ラジオを一昨年の10月より時々聞いております。
カトリックの洗礼を受けて20年になります。
少しずつ、私だけのための神様のお導きによって生かされていることを実感してきたこの頃です。
私自身よりも私のすべてを知っておられる主、
私に一番良いものを与えようと、いつも愛してくださっている主に信頼しきって
「信頼します。感謝します。ああ主はなんと善い方。賛美します」と
主に申し上げることが信仰なのかなと考えるようになりました。
この信仰の光だけが私の宝で、
これさえあれば、この世で主がくださるすべてのもの、事に
いつも感謝していられるので、
何が来ても幸せでいられる気がしています。
FEBCの放送も、神様が私のために与えてくださるメッセージです。
今日、筆をとりましたのは、
母のために聖書通信講座をお願いするためです。
私の家族は誰も信者ではありません。
しかし、私が受洗することも、教会に奉仕することも
誰一人悪く言う人もいないばかりか
温かく見守り、ほめてくれることさえあり、
私はとても感謝しています。
みな善い方ばかりなので、
信仰の喜び、イエズス様に愛されていかされる喜びを持ってほしいと願っています。
母にとってかなり辛いことがあり、
「私も信仰を持つ時が来たのかも」と言い出したので
どうぞよろしくお願い致します。
また、このきっかけを大切に、
私も時折、お手紙を差し上げて
私のこと、神様の恵みを分かち合う機会としたいと思います。
必ずお返事をくださるとのことで恐縮です。
どうぞ私には簡単になさって、
大きな苦しみ、悲しみの内にある方、主の憐れみを切望されている方に
大切なお時間をお捧げください。
あなた様の、お母様のための祈りが神様に届いて、